小松原一男
1943年12月24日横浜市にサラリーマン家庭の三人兄弟の次男として誕生。絵を描くことの好きな少年として育つ。
1958年定時制高校に学びながら、大船の三菱電気工場に塗装工として5年間勤務する。在籍中、社内のポスター公募や松竹映画スター肖像画コンクールに入選するなどイラストレーションを常に描いていた。鎌倉在住の漫画家横山隆一の「おとぎプロダクション」を訪ねるも登用されることなく、勤めを続ける。
1963年、「鉄腕アトム」の製作を始めた虫プロダクションの新聞広告の中のアトムの絵を見て、進路を決める。40人の求人に対して数千人の応募のあった厳しい倍率の中、新人アニメーターとして三度、次に彩色、背景として採用試験も受けるがいずれも不採用となる。
1964年7月13日、東映動画が大森に設立した動画養成所(大田区分室)へ入り、養成期間の半年の内に「狼少年ケン」「おそ松くん」などの作画でキャリアをスタートさせた。所長は日本アニメ界のパイオニアの一人でもある山本善次郎(早苗)、講師に熊川正雄を始め、大塚康生、月岡貞夫が時々やって来て教えを受けることもあった。東映動画から独立し「チルドレンズ・コーナー」と改称したスタジオで「宇宙パトロール・ホッパ」「レインボー戦隊ロビン」「魔法使いサリー」等の作画を担当。食事はインスタントラーメンばかり、電気エンピツ削りを500円で質屋へ入れることもしばしばあるという清貧な生活をおくる。同社では「宇宙少年ソラン」「鉄人28号」「W3」など東映動画以外の作品も手掛けたが、日米合作の「ジョニー・サイファー」の製作が赤字となり、倒産してしまう。
朝日フィルムに入社。「巨人の星」の原・動画を受け持つが、給料が出ないのでやむなく汐留駅で荷物下しという夜間のアルバイトをしつつ半年を過ごす。
次に友人の紹介でハテナプロに入社。
「ひみつのアッコちゃん」「モーれつア太郎」「ゲゲゲの鬼太郎」などの原画を担当し、「タイガーマスク第6話恐怖のデスマッチ」から作画監督となる。
1970年ハテナプロの解散に伴い、塩山紀生、村田耕一等と共にオープロダクションを設立する。専務取締役として経営にあたりながら引き続き「タイガーマスク」を担当。最終話「去りゆく虎」で注目をあびる。
引き続き、フランスで大ヒットした「UFOロボグレンダイザー(ゴルドラック)」や「ゲッターロボ」「マグネロボ ガ・キーン」など主に東映動画の作品で精新なタッチのアニメーションを発表。
その高い技術と繊細な作画は、「銀河鉄道999」などの松本零士原作アニメから宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」「メトロポリス」まで、日本映画史を飾る多彩な作品をヒットに導いた原動力となった。
名声を求めず一職人として様々な絵柄をかき分けながら作品の完成に献身する姿は、業界の尊敬を集め、その教えを受けた者の多くは現在、作画監督として広く活躍している。
頚部悪性腫瘍のため、平成12年3月24日永眠。享年56才。