政岡憲三 1992. 04. 25

1898年10月5日、大阪市西区の裕福な地主の家に生まれる。幼少より絵画、音楽に親しみ、1922年京都市立絵画専門学校に入り日本画を黒田清輝の葵橋研究所で洋画を学ぶ。

1925年、25歳の時に京都・御室天授ヶ丘のマキノプロダクションに入社、牧野省三の助監督、衣笠貞之助監督「日輪」(聯合映画芸術家協会作品)の奈良公園のロケ・セット製作、時にカメラマン、さらに俳優として人見吉之助監督「人質」27に瀬川瑠璃之助の芸名で岡嶋艶子と共演したりした。

1927年独立し、京都下加茂に雅号をつけた「呑平プロダクション」を設立、生家の資金援助を得て児童劇映画「海と宮殿」を製作・監督。
1929年日活太秦撮影所に入り、時代劇のカメラマンを短期間つとめたのち教育映画部技術主任となり、「光栄の南紀州」「京大馬術部」ほかを撮影・監督する。
翌30年、同部の廃止にさいし退職を条件に製作費を前借りし、漫画映画「難船ス物語・第一篇・猿ケ島」を完成・公開し、アニメーション作家としてスタートする。

続いて「城主と馬鹿八」「難船ス物語・第二篇・海賊船」を発表、1932年には京都北野紙屋川町の自宅に政岡映画製作所を設立、瀬尾光世らを門下に本格的な漫画映画の製作に入る。
これを知った松竹の城戸四郎の製作により松竹と提携、土橋式トーキー使用の日本最初の本格発声漫画映画「力と女の世の中」を原作と脚色・池田忠雄、原画監督・政岡、発声監督・野村浩将、撮影・木村角三、動画・瀬尾のスタッフと、声の出演・古川緑波、磯野秋雄、対馬洋子、沢蘭子で完成。タイピストに夢中になった亭主と超グラマーな女房の奮戦記で、これは33年4月15日、浅草帝国館で封切られた。

同年、島津保次郎原案による「仇討からす」「ギャングと踊子」を監督、また特撮にも手腕を発揮し京都下加茂撮影所で、衣笠貞之助監督、林長二郎主演の「天一坊と伊賀亮」33の特撮、J・Oスタジオでは「かぐや姫」の幻想場面を担当、日本のメリエスと賞讃された。

1934年の「ターちゃんの海底旅行」「森の野球団」「茶釜音頭」などの製作には当時まだ高価であったセルを多量に使用し、美しく滑らかな動きをもつアニメを製作。ことに「森の妖精」は当時日本漫画史上最高の作品といわれ、日本のディズニーと評されたが、経費のかかり過ぎから破産。

1936年からJ・Oのトーキー漫画の製作を請け負い、征木統三、木村角山、宮下万三、熊川正雄らに下請けさせる。しかし、1937年11月、京都に日本動画協会を設立して「べんけい対ウシワカ」、「ニャンの浦島」、「夢の魔術師」「鳥の保険勧誘員」などを完成させ、これを松竹から配給する。

戦争でフィルムの入手が困難になったため1941年5月に松竹本社に特設された松竹動画研究所に責任者として入り、ここを足場とし「フクちゃんの奇襲」(1942)を第一作に意欲作を発表。
1943年4月15日封切りの脚色、撮影、演出を担当した彼の代表作「くもとちゅうりっぷ」は、戦時中唯一の戦時色のない漫画映画として軍部からにらまれた。
松竹でこのあと「フクちゃんの増産部隊」(1943)の撮影を担当。終戦直後の1945年10月に山本早苗(善次郎)、村田安司らと新日本動画社を設立、11月には日本漫画映画株式会社に改組、1946年「桜(春の幻想)」を監督したが、上映を予定していた東宝から余りに芸術性が強く興行には不向きとされ、封切られなかった。

しかし間もなく同社を離れ、山本とともに三和興行系の間下哲男らの資本参加により資本金百万円の日本動画株式会社を1947年夏に設立、社長・山本早苗、取締役・政岡憲三、製作技術担当・薮下泰司で牛込原町の成城中学校内にスタジオをつくり、東宝教育映画と提携して政岡演出の「すて猫トラちゃん」を第一作に製作に入る。同年これを完成、この頃から政岡は仕事上の無理から視力を害し、1950年「トラちゃんのカンカン虫」を最後に引退した。

ちなみに日本動画は1952年9月に日動映画株式会社と社名変更、翌53年東映にそっくり買収され、これが1956年8月、東映動画株式会社となる。政岡はその後、視力も回復、後進の指導、動画映画論の素稿に、新作「人魚姫」絵コンテの製作に熱意を燃やした。
日本動画の草わけ的存在であり、これまでの経歴に見るとおりの多才の人。『鴨川をどり』の舞台装置と衣装デザインを手がけたり、趣味として長唄、謡曲、仕舞、狂言に鼓も打つという多芸の持ち主であった。結婚は1934年9月だが、届出を父にまかせたため戸籍上は1942年7月31日となっている。一女あり。

1988年、90歳で永眠。

(杉本五郎:記 アニドウ:記述補完)

代表的な作品