友永和秀結婚披露パーティの記録 2011. 04. 30

[完成1980] 撮影=金田康弘(ベータ)時間=3h30min. 構成=なみきたかし

昭和55年10月18日に阿佐ヶ谷襟懇館(きんこんかん)で行われた友永和秀、月間恵美子夫妻の披露宴の記録。アニメーターの集まりだから、真面目な挨拶もなくいきなり演芸大会になってしまって、最後まで盛り上がるユニークな祝賀会でした。ゲストは、媒酌人大塚康生氏をはじめ、小田部羊一、奥山玲子、宮崎駿、金田伊巧、片山雅博、竹内孝司、小松原一男、村田耕一、才田俊次、福富博、浦谷千恵などなど。進行スタッフは当時のアニドレイ。司会進行は、なみきたかし、岡田ひろみ。《関係者にのみ配布》《非売品》

アニドウが国際アニメフェスティバルを開催 2011. 04. 30

なんとアニドウが初の国際コンペ部門を持つ、フェスティバルを今年10月に開催する。杉並区荻窪の小さなホールで催す上映会だが、ちょっと国際映画祭とは、ホラもいいかげんにせんかい、という気分である。アニドウ新鋭アシスタントである四元嬢の活躍が期待されている。 しかし、公募が遅れていたりしてなにかと問題である、はたして実現できるのか?!

10月6日(木)小ホール
10月8日(土)グランサロン 軽食パーテイ
10月9日(日)小ホール
10月10日(月/祝)小ホール

かながわのアニメ、世界へ 2011. 04. 29

[TV番組1999] 撮影=金子由郎 (DV)時間=60min. レポーター=岡村美雪 演出=金子由郎

「この星の上に」が入選し、招待されたESPINHO’98(ポルトガル国際アニメーション映画祭)の模様。1999年5/19(水) 14:00~14:55 テレビ神奈川(TVK)

美しいポルトガルの旅情を交えて、各国の人々の「この星の上に」へのコメントや、坂田晃一さんの音楽収録風景などメイキングも。編集には、VAIOのプレミアを初めて使用。仕上げはプロのスタジオで、ベーカムにまとめ、さらに放送用にD2へあげました。《ビデオ/DVD未発売》詳しくは「かながわのアニメ世界へ」<放送済み>

小松原一男 2011. 04. 28

1943年12月24日横浜市にサラリーマン家庭の三人兄弟の次男として誕生。絵を描くことの好きな少年として育つ。
1958年定時制高校に学びながら、大船の三菱電気工場に塗装工として5年間勤務する。在籍中、社内のポスター公募や松竹映画スター肖像画コンクールに入選するなどイラストレーションを常に描いていた。鎌倉在住の漫画家横山隆一の「おとぎプロダクション」を訪ねるも登用されることなく、勤めを続ける。
1963年、「鉄腕アトム」の製作を始めた虫プロダクションの新聞広告の中のアトムの絵を見て、進路を決める。40人の求人に対して数千人の応募のあった厳しい倍率の中、新人アニメーターとして三度、次に彩色、背景として採用試験も受けるがいずれも不採用となる。
1964年7月13日、東映動画が大森に設立した動画養成所(大田区分室)へ入り、養成期間の半年の内に「狼少年ケン」「おそ松くん」などの作画でキャリアをスタートさせた。所長は日本アニメ界のパイオニアの一人でもある山本善次郎(早苗)、講師に熊川正雄を始め、大塚康生、月岡貞夫が時々やって来て教えを受けることもあった。東映動画から独立し「チルドレンズ・コーナー」と改称したスタジオで「宇宙パトロール・ホッパ」「レインボー戦隊ロビン」「魔法使いサリー」等の作画を担当。食事はインスタントラーメンばかり、電気エンピツ削りを500円で質屋へ入れることもしばしばあるという清貧な生活をおくる。同社では「宇宙少年ソラン」「鉄人28号」「W3」など東映動画以外の作品も手掛けたが、日米合作の「ジョニー・サイファー」の製作が赤字となり、倒産してしまう。
朝日フィルムに入社。「巨人の星」の原・動画を受け持つが、給料が出ないのでやむなく汐留駅で荷物下しという夜間のアルバイトをしつつ半年を過ごす。
次に友人の紹介でハテナプロに入社。
「ひみつのアッコちゃん」「モーれつア太郎」「ゲゲゲの鬼太郎」などの原画を担当し、「タイガーマスク第6話恐怖のデスマッチ」から作画監督となる。
1970年ハテナプロの解散に伴い、塩山紀生、村田耕一等と共にオープロダクションを設立する。専務取締役として経営にあたりながら引き続き「タイガーマスク」を担当。最終話「去りゆく虎」で注目をあびる。
引き続き、フランスで大ヒットした「UFOロボグレンダイザー(ゴルドラック)」や「ゲッターロボ」「マグネロボ ガ・キーン」など主に東映動画の作品で精新なタッチのアニメーションを発表。
その高い技術と繊細な作画は、「銀河鉄道999」などの松本零士原作アニメから宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」「メトロポリス」まで、日本映画史を飾る多彩な作品をヒットに導いた原動力となった。
名声を求めず一職人として様々な絵柄をかき分けながら作品の完成に献身する姿は、業界の尊敬を集め、その教えを受けた者の多くは現在、作画監督として広く活躍している。
頚部悪性腫瘍のため、平成12年3月24日永眠。享年56才。

フレデリック・バックさんジブリに行く 2011. 04. 28

[完成1998] 撮影=金子由郎 (DV)時間=25min.演出=なみきたかし

「木を植えた男」の巨匠(というにはとても謙虚な物腰の人だが)何度目かの日本訪問で、アニドウでは一日都内観光にご案内した。高畑さん他スタッフの招待で、スタジオ見学に東小金井のジブリへ。1Fで、「この星の上に」の上映をしてから、車に分乗し桜並木を眺めつつ、江戸東京たてもの園へ。高畑さんの案内で銭湯などを案内したのでした。《関係者にのみ配布》《非売品》

椋尾篁 2011. 04. 28


1938年1月1日、長崎県佐世保市に生まれる。1963年、武蔵野美術学校洋画科を卒業。東京ムービーに入社。背景美術の世界に。1966年、椋尾グループ設立。1968年、ムクオ・スタジオ設立。1979年の第1回アニメグランプリ(徳間書店主催)美術部門人気投票第1位。部門の廃止された第5回まで連続第1位の快挙をとげる。東映動画、日本アニメーション、マッドハウスなどの代表的なアニメ作品の美術監督を多数手がけ、アニメ美術の第一者として活躍。1992年6月9日、54歳の若さで病気の為、世を去る。

もりやすじのアニメーション世界を語る 2011. 04. 27

[VHSセル1983] 撮影=金子由郎(ベータカム)時間=27min.演出=日野れい子
1992年3月のイベント(日仏会館ホール)の記録を本格的に編集したもの。もりさんの照れた笑顔と豪華なゲストたちの貴重な発言が収録されている。このイベントは本来もりさんの画集の完成時に企画されていたものだが、もりさんの病状が予想以上に悪く開催を急ぐこととなった。出演(敬称略)=もりやすじ、坂本雄作、彦根範夫、小田部羊一、奥山玲子、高畑勲、大塚康生、友永和秀、金田伊巧。司会進行=山田典子、片山雅博。イベントの構成=なみきたかし

政岡憲三”動画誕生の碑”除幕式 2011. 04. 26

[完成1981] 撮影=杉本五郎・なみきたかし(16mm film)時間=8min.演出=杉本五郎

埼玉県越生霊園に、政岡さん自らが製作した碑の除幕式を記録した16mmフィルム。参加者は瀬尾光世、桑田良太郎、吉村祥、薮下泰治などの各氏。アニドウで購入したボレックスカメラのデビューであったが、なみきの撮影したものはほとんどはピンぼけで使えないカットが多かった。杉本五郎が撮影したものを合わせて編集した。タイトル画は片山雅博。《機会あるごとに上映》《DVDに収録》「くもとちゅうりっぷ」

海外からの反響 2011. 04. 26

なみきたかし 様

才能溢れるすばらしい方々に会わせて頂いた、忘れがたい日のビデオを受け取りました。ありがとうございます。たくさんの記録を残してくれたカメラマンの方*(南家こうじさんでしょうか?)にもお礼を申し上げます。おかげで我々の思い出を貴重なかたちで残すことができましたし(こういうことが必要なもので)、子供達や友人に旅のハイライトを聞かせる際にもとても役に立ちます。非常にお忙しい中、あなたの貴重な時間を割いていただきまして、本当に感謝しております。

ジブリのスタジオで見せて頂いた「この星の上に」は大変興味深く、どんどん移り変わる沢山のシーンを堪能いたしました。ただ一言いわせて頂くのであれば、マシントレスが若干濃すぎ、コントラストが強すぎたような気がします。もうすこし柔らかい方がこの主題にはそぐわしかったのではないでしょうか。しかしいずれにせよ素晴らしい作品ですので、観客やスポンサーの支持も得られるといいですね。

あなたと会って素敵な時間を過ごせまして、本当に楽しかったです。あなたにも是非こちらに来ていただきたいので、カナダにお越しの際にはご一報下さい。私も良い場所に案内いたしますし、愉快な人たちにも紹介したいと思っております。

みなさまにも感謝の意をどうぞお伝え下さい。敬具

フレデリック・バック

*(編集部注=カメラマンは金子由郎)

なみきたかし 様

あなた方の最新フィルム「この星の上に」をありがたく頂戴いたしました。このような

ビデオテープをわざわざ送って頂き、本当に感謝しております。

「この星の上に」は家族で拝見させて頂きましたが、みんなとても喜んで好意的な意見を申しておりましたし、私などさらに何度か見直してしまいました。

テクニックがとても素晴らしい。同じような技術を駆使したフィルムに「木を植える男」がありますが、あなたがたのテーマが木が植えられたその後であることをふまえますと非常に興味深く思いました。絵(drawn animation)と特殊効果( spacial effects animation)の兼ねあわせもみごとでした。そして前方のアイテムがそのままでシーンが変わっていくことには本当に感心しました。アニメーションで場面が移行していくところの人物や自動車、とりわけクッションの中の赤ちゃんが椅子の上で立ち上がる少年へと変わっていく場面の、ロッキングチェアーをカメラクレーンを使ってぐるりと撮影したような3Dの動きが素晴らしかった。

私が最も好きなところは、水くみをする子どもの場面(犬の細かさも含めてです)と、このシークエンスの最後にある雪の中の人形です。

また音楽も非常に気に入りました。音が小さくなったり大きくなったりしながらストーリーを区切り、音だけとってみても話の展開は分かることでしょう。英語字幕も簡明で素晴らしかった。英語のクラシックな香りがしますし、物語をとても良く伝えていて、言葉の選び方も音楽同様にとても気に入りました。

世界中に共通するつながりとして木の精霊を取り上げたことも、ユニークで興味深いテーマでした。

私がこの手紙に書いたこと、すなわち私がこの映画をとても気に入り大いなる感銘を受けたことがあなた方にうまく伝わると嬉しいです。映画の配給に成功し、沢山のフェスティバルに出品できることをお祈り致します。

お返しになるような私の新作フィルムがなくて本当に申し訳ありません。私はちょうど新しいプロジェクトをスタートさせたところで、おそらく5分か6分の長さになる予定です。そのあとさらに短編を制作して、今やっている新作と「The Orchard」と合わせて30分の番組にできるといいと思っております。ニュージーランドのマーケットは短編には不利なので、テレビに売り込むためには何本か組み合わせた方がいいのです。子供向けのビデオを出す際も同じです。

日本の短編の配給はどうなのでしょうか。「この星の上に」のみでテレビ局に売り込むことが出来るのか、もしくは同じように他の作品と合わせて30分にしなくてはならないのか教えていただけるとありがたいです。(子供用ビデオを出す際も同じでしょうか?)

最後になみきsama、貴方のフィルムを見せて頂きまして本当にありがとうございました。さらなる映画プロデュースができますようお祈り申し上げます。

ボブ・ステンハウス

*(編集部注=ステンハウス氏は「果樹園」などで知られるニュージーランドのアニメ監督)

もりやすじ画集 編者 あとがき なみきたかし 2011. 04. 25

もりさんは アニメーションの神様ですが ぼく個人にとっての神様でもありました

小学生の頃 関東一の登校拒否児童といわれた ぼくですが アニメーションに夢中になることで

なんとかこの歳まで あれこれやってこられたと思うのです

そのアニメ-ションという芸術の中心に いつも もりさんの姿がありました

成長するとともに 見ていた東映の長編は たぶん骨までしみこんでいるに違いありません

高校生の時 新宿のコボタンという喫茶店で 東映のスタッフが中心の研究会があると聞き アニドウに入りました

会長の相磯嘉雄さんに 誘われて 「ながぐつ三銃士」という作品の撮影のアルバイトを 東映動画スタジオですることになり

マルチプレーン撮影台や もりさんのキャラクターの描いてあるセルに 興奮したものです

同じ建物にいるはずの もりさんを訪ねるような 恐れおおいことはしなかったのが悔やまれます

その後 竜の子プロやトップクラフトという会社のあいだを 撮影助手としてうろついた後で オープロダクションに拾ってもらいました

やっていたのは「ロッキーチャック」です

青いコピー用紙を本のように綴じた もりさんの描いた動物の動きの見本帳を みんな持っていました

ある日 新番組の試写があるというので 高円寺のズイヨー映像という トタン屋根のスタジオへ行き

「ハイジ」という数分のフィルムを見ました

その時のキャラクターはもりさんのつくったものでした

オープロで机を並べた友永和秀は もりさんの下で働きたいと 九州から出てきたというので

それだけで才能のある奴だと 確信したこともありました

どうも それは間違っていなかったようです

十年間もへたな動画を描く傍ら アニドウの活動を続け 政岡憲三先生と知遇を得ることが出来ました

もりさんは 机の下でよく寝ていたり 奇抜な格好をする変人だった と聞いて とても 安心したものでした

東映動画が機材を払い下げるというので 飛んでいって動画机をひとつ五千円で何台も買いました

その時 友人の北島信幸とリヤカーでひっしに運んだ机は いまも使っています

もりさん設計の大きな動画机です

日本初のアニメ専門というふれこみの雑誌を発行して もりさんの特集を考えたり 「わんぱく」の特集を

大塚康生さんの解説で出版したりしているうちに どうしても もりさんの本が作りたくなって お願いにあがりました

新宿で原画展をやったり 資料を集めたりしているうちに それから八年以上もたってしまいました

最初は百頁ほどの予定だったこの本も その間に二倍以上になり 全てをひとりで抱え込んでしまって

キチンと進ませないため こんなに遅れてしまったのです

去年の初め もりさんはレイアウトをご覧になって 喜んでくれているようでしたが

ついに 完成したものを お見せする機会を逸してしまいました

こんなグズな話しは 聞いたことがありません

ようやく もりさんご本人と親しくお話が出来るようになったのに……

この本をつくるために協力してくれた方々と 読者のみなさんに 心から感謝をしています

しかし そうした謙虚な反面 この本は ほとんどぼくの努力の結果だ と強弁したい誘惑にかられています

ぼくの尊敬のホンの一部を 形にしたものがこの本だと もりさんに受けとめてもらいたいからです

こんな勝手な発言を許してくれるのも もりさんぐらいでありましょう

思えば 一篇の漫画映画のような あっという間の短い お付き合いでありました

それはまた 良く出来た作品のように いつまでも心に輝くものであることも 同じようです

森さんについて ひこねのりお 2011. 04. 25

もう三十年ほど昔になりますが、私が森さんの作品に出会ったのは、アニメー ションではなく、月刊雑誌「漫画少年」(多くの漫画家を育てた素晴らしい少年 雑誌で復刻版が出ています。)の表紙でした。森さんの描いた表紙の絵には漫画 でも童画でもない新鮮な魅力が感じられました。表紙の動物たちが今にも動きだ しそうな気配がするのは、森さんがアニメーターだからにちがいありません。

半年ほど続いた森さんの表紙の中でも私が一番好きなのは、月の砂漠をラクダ にのった動物たちが旅をしている作品です。「この連中は何処へ行くのかな?」 と想像せずにはいられない楽しさがありました。

森さんが描くキャラクターは、品がよくて、あたたかくて、観ているとホッと します。好運にも私は東映動画で森さんのキャラクターを動かすチャンスにめぐ まれました。あの頃は仕事が仕事と感じられないくらい楽しくて、森さんのキャ ラクターと遊ぶために会社へ行っている様なものでした。森さんはおだやかで謙 虚な人ですが、仕事に対してはきびしい人ですから、私などが動画を観てもらう ときは非常に緊張したものです。

森さんはよく「アニメの神様」と呼ばれます。それは教祖的な御姿をしている からだけではなく、天才とか鬼才以上の魅力を持っている人格者だからです。東 映動画スタジオ出身のアニメーターや日本アニメーションのアニメーターは多か れ少なかれ、森さんの影響を受けているのではないでしょうか。「そして森さん の影響を受けたアニメーター」の影響を受けているアニメーターの数もはかり知 れないものでしょう。

又、作画監督の元祖も森さんです。東映動画の長編アニメ「わんぱく王子の大 蛇退治」は、森さんが初めて作画監督として、今までにないスタイルのキャラク ターで統一した作品です。最近では作画監督システムは当り前になっていますが 、この作品以前には作画面で全体を統一するシステムがあいまいだったのです。 この作品が成功したからでしょう、その後このシステムは不可欠なものになった のです。

森さんは企画力もすぐれています。「ハッスルパンチ」などは世に出るのが早 すぎたくらいのしゃれた都会的センスが感じられるギャグアニメでした。もっと 森さんの企画力を生かせるプロデューサーが出てくればよいのですが、残念です 。この「ハッスルパンチ」にしろ「こねこシリーズ」にしろリメークしたらとて も楽しいのではないでしょうか。

そして、これからも森さんの新しい企画と新しいスタイルのキャラクターの絵 本を期待しております。

(編集部注:本原稿は昭和60年に頂きましたものをそのまま掲載させていただきました。)

ごあいさつ もりやすじ 2011. 04. 25

日本動画社に入社して アニメーションをはじめてから

何時の間にか 三十年 過ぎてしまった

その頃、そんな仕事をする者が少なかったから

そのあと アニメーションが 盛んに なると

私は先住者のような 大きな顔をして いろんな作品に

加わらせてもらった

--スタッフのみんな ありがとう

小学館の幼児雑誌に ゾウさんの四色頁を

はじめて描かせていただいてから

三十年 たってしまった

たいして うまくもないのに

シャレた絵なんか ひとつも描けないのに

あっちこっちの出版社で

クマさんや ブタさんを描かせてもらった

--編集の皆さま ありがとう

私の描いてきた絵を集めて 画集を出しましょう と話しがあった

そんな本 買う人なんかいませんよ と言うのに

会社がつぶれますよ と言うのに

——それもいいんです 出しましょう

そういって なみきさんは 下駄をならせて大声で笑った

アニドウの皆さん ありがとう

この本のため 又多くの方に お世話になりました

序文を寄せてくださったひこねさん

出版社の方 編集アシスタントの石橋さん

こころから お礼申し上げます

昭和六十年 七月

もりやすじ画集の目次 2011. 04. 25

2 ABOUT MORI-SAN by Norio Hikone (Animator)

3 もりさんについて/ひこねのりお

4 GREETINGS From Yasuji Mori

5 ごあいさつ/森やすじ

児童雑誌のための童画 Illustrations for Magazine

9 <漫画少年>表紙画

13 「いたずらぴーぼ」

57 <別冊幼児と保育>表紙画集

68 絵本/劇のための美術デザイン

104 児童画集

アニメーションのための作画 Works for Animation

119 企画ボード「アリババと40匹の盗賊」

125 東映動画スタジオ作品-1

137 企画ボード「動物たちの話した “聖夜”」

144 東映動画スタジオ作品-2

163 「宇宙パトロール・ホッパ」(コミック)

169 TV番組のための設定

186 企画のためのスケッチ

写真でたどるもりさんの創作の歩み

付記 Appendix

242 Biograohical Note

243 略歴

244 収録図版と編集について

246 編者あとがき/なみきたかし

「はれときどきぶた」編集にあたって 2011. 04. 25

編集・デザイン なみきたかし

この本はマンガでも写真集でもありません。アニメーションの映画フイルムから選んだコマの写真を構成しなおして、みなさんが何度見てもおもしろいように作ったものです。もう映画を見た人は、あそこがもっと見たかった、と思ったところをもう一度、この本でゆっくり見てください。

この本にはコマ写真が900枚以上も印刷されています。どれも、映画の新しいフィルムをハサミでチョン切ったものです。もったいない!と思いますか?

テレビよりもていねいにつくられているので、この映画に使われた絵は全部で40000枚以上もあるのです。つまり、39000枚以上のコマを使わなかったわけで、こちらのほうが本当はもったいないと思いませんか。アニメーターの人たちが一枚一枚捕いた絵がそれだけあってはじめて「生きて動いて」見えたのです。一秒の画面を作るために12枚以上の絵が描かれています。そこにはムダなコマはないのですが、こうして本にするときには選ぱなくてはならなくなり、アニメーターの人たちに、申し訳なく思いながら、切っていきました。則安が新聞をつくりたくなったようにあなたもアニメーション映画が作りたくなればいいな、と思います。

ぽくもこの映画を見てから「うそほんとアニメ」というのを作ろうかな、と考えているのです。

編集者あとがき  なみきたかし 2011. 04. 25

川本先生から本書の出版について相談されたのは、早くも10年以上前の話になります。編集作業は明記されている初版の発行日昭和59年(1984)よりずいぶん前のことですから、もう二昔前のことのように思えますが、忘れられないことばかりです。

私たちにとって、経験のない大冊の出版なので編集作業は遅れに遅れました。 同時に進めていた初めての人形展が新宿で始まっても、まだ本は出来なくて、1万人ものファンが来場してくれたのですが、出すものは遅延のお詫びだけという事態にあきれた川本先生の顔は忘れられません。

やっと編集を終えた後の印刷行程でも、インクが片寄って部分的に色が薄くなってしまうというトラブルがあり、3000部分の刷り上がりを全て捨ててやり直すという信じられない出来事もありました。なにしろ工場一杯の紙の塊を捨てたのですから、あまり思い出したくないことです。

絶好の販売チャンスを逃したにも関わらず、初版は好評でほどなく売り切れとなりました。しかし、定価を低く設定したので大赤字になってしまい、これも関係者にあきれられたのでした。

今でも時にはあの人形展の時に今の定価で売っていれば..、という宝くじに当たったような夢を時々見ます。

そんな失敗続きのこの出版も版を重ね、多くの方々に愛されていることが最近になって実感できるようになりました。今では成功した出版と言いはる私に、またまた川本先生は内心あきれていることでしょう。  もちろんそれは、この人形たちの持つ力の前には凡人のなした失敗などたいした影響もない、といった事実を実証しただけなのですが。

私たちアニドウはアニメーション研究を専門としています。川本先生も世界的に著名なアニメーション映画監督としてご指導を仰いでいたものですから、本書の出版は私たちの受け持ち分野ではない、と当初は考えておりました。 しかし今では、人形たちとの出会いを感謝し、<生命を吹き込む>という本来の意味でも、これはアニメーションの範疇にも入るものであり、私たちの活動としても的を得ているものであったと今にして思えるのです。  貴重な経験を与えてくれた川本先生と人形劇「三国志」のスタッフ、読者のみなさんに心から感謝いたします。 (1996年12月)

川本喜八郎 2011. 04. 25

1925年、東京千駄ヶ谷に生まれる。
1944年、旧制横浜高等工業学校(現横浜国大)建築科卒業。

1946年に東宝撮影所に入社、美術助手として「今ひとたびの」「女優」他を担当。

1950年に独立、フリーの人形美術家としてトッパンの人形絵本シリーズ、教育映画人形アニメーション「ちびくろサンボ」「こぶとり」他、CMなどを制作。

1958年、テレビCM制作会社〈シバプロダクション〉設立、常務取締役として就任。「アサヒビール」「ミツワ石鹸」などの人形アニメーションCMを制作。

1963年、同社を退社後、旧チェコスロバキア・プラハの人形アニメーション・スタジオへ留学。イルジー・トルンカ氏に1年間師事する。

帰国後、1965年からは主にNHKの青少年番組の人形を制作。「やんやんムウくん」「おかあさんといっしょ」「クイズ面白ゼミナール」など多数を手がけた。

1968年、自主人形アニメーション「花折り」制作。同作でママイア国際アニメーション・フェスティバル銀のペリカン賞受賞。

1972年、自主人形アニメーション「鬼」制作。毎日映画コンクール大藤賞、メルボルン映画祭特別賞、他受賞。
パペットショウ「日々是好日」発表。

1973年、自主カットアウト・アニメーション「旅」制作。
パペットショウ「おばけの世界」発表。

1974年、自主カットアウト・アニメーション「詩人の生涯」制作。毎日映画コンクール大藤賞受賞。
パペットショウ「女の映画館」発表。

1976年、自主人形アニメーション「道成寺」制作。毎日映画コンクール大藤賞、仏アヌシー国際アニメーション・フェスティバルにてエミール・レイノー賞と観客賞、他多数受賞。
パペットショウ「世間胸算用近頃腹裏表」せけんむなざんようちかごろほんねとたてまえ発表。

1979年、自主人形アニメーション「火宅」制作。バルナ国際アニメーション・フェスティバルにてグランプリ、オタワ国際アニメーション映画祭審査員特別賞、他多数受賞。
長編人形アニメーション「蓮如とその母」監督、人形制作、アニメーションを担当。

1982~84年、NHK人形劇「三国志」人形美術を担当。

1984年、人形個展〈川本喜八郎・三国志百態〉を開催。新宿ギャラリー高野にて。(協力:アニドウ)

1985年、人形個展〈川本喜八郎『三国志』そして『平家物語』〉を開催。新宿ギャラリー高野にて。

1986年、ニューヨーク近代美術館で「川本喜八郎のアニメーション」特集上映。

1988年、中国で人形アニメーション「不射之射」を監督、制作指導。紫綬褒賞を受賞。
オムニバス「セルフポートレート」制作。

1989年、再びチェコのプラハに渡り、トルンカ・スタジオで「いばら姫またはねむり姫」を制作。毎日映画コンクール大藤賞受賞。

1990年、特集上映〈草月アニメーション・シアター90〉を草月ホールで開催。

1991年、故岡本忠成氏の未完の遺作「注文の多い料理店」を引き継ぎ、監督。

1992年、個展〈川本喜八郎・新平家人形展〉を開催。新宿ギャラリー高野にて。

1993~95年、NHK人形歴史スペクタクル「新平家物語」人形美術担当。

1995年、勲四等旭日小綬章受章。

1996年より日本アニメーション協会 会長に就任。

1997年、新宿三越美術館にて展覧会「人形の魔術師 川本喜八郎展」開催。

1999年、日本橋三越劇場・三越名人会でパペットアニメーショウを復活講演。

2003年、松尾芭蕉の連句をテーマにしたアニメーション作品「冬の日」を制作。35名の国内外の作家たちに声をかけ、空前のコラボレーションを実現させる。毎日映画コンクール大藤信郎賞、文化庁メディア芸術祭<アニメーション部門>大賞他受賞。

2006年、自主人形アニメーション「死者の書」制作。ザグレブ国際アニメーション審査員特別栄誉賞、他多数受賞。

2010年8月23日、病没。享年85。

古川タクさんロングインタビュー 2011. 04. 25

[DVD1998] 撮影=岩田一友・金子由郎(ベーカム&(DV))音声=山中洋彦 時間=47min. 編集=宮口順一 AD=松本恵美子 演出=なみきたかし

DVDソフト「タクン・フィルムズ」のためのインタビュー。はじめてベーカム・カメラ・クルーを導入し、2月24日の小雨の中8時間に渡り撮影した。Bカメラに(DV)を使用。インタビュアーの女優落合るみ(劇団昴)さんと共にビリケン商会への散歩など野外にも飛び出します。ときどきアニメが混じるへんな演出が一見の価値あり。略歴紹介映像も製作しました。(5min)《DVDに収録》「古川タク:タクン・フィルムズ

高畑勲監督ロングインタビュー 2011. 04. 24

[DVD2000] 撮影=白石景司・金子由郎(ベーカム&(DV)) 時間=47min. 編集=宮口順一 AD=菅沢悦子 演出=なみきたかし

1999年12月10日、DVD「セロ弾きのゴーシュ」のためにスタジオ・ジブリに高畑勲さんを訪ね、ゴーシュについて2時間に渡ってお話をうかがった。この他に村田耕一氏、才田俊次氏、窪田忠雄氏のメインスタッフにインタビューし、短くまとめました。一日で四本撮りはきつかったです。この仮編集(オフライン)には、VAIOのプレミアを活用。仕上げはプロのスタジオで、デジタル・ベーカムに。

《DVDに収録》「セロ弾きのゴーシュ」

小松原一男追悼イベント「ラピュタのビルは俺のビル」 2011. 04. 23

[完成2000] 撮影=金子由郎・手崎信吾 (DV)時間=60min.演出=なみきたかし

3月に亡くなったアニメーター小松原一男の追悼イベントを2000年6月20~25日の約一週間に渡り記録した。24の上映プログラムを中心に開催されたこの催しは入場無料で、多くのボランティア・スタッフの協力によって実現したものだ。このプログラムでは、りんたろう監督、勝間田具治監督など友人たちのトークショー、同時開催の原画展示、カラオケ大会、記念レセプションなどの全てを記録した。《関係者にのみ配布》《非売品》

このイベントについて詳しくはオープロのページに載っています

小松原一男アニメーション画集 2011. 04. 23

「タイガーマスク」「UFOロボグレンダイザー(ゴルドラック)」「デビルマン」「ゲッターロボ」「リミットちゃん」「超人戦隊バラタッック」「キャプテンハーロック」「銀河鉄道999」「風の谷のナウシカ」「はれときどきぶた」「メトロポリス」等々、日本アニメーション史を飾る多彩な作品をヒットに導いた偉大なアニメーターの全てをあなたに贈りましょう!


小松原一男アニメーション画集

KAZUO KOMATSUBARA Animator The Great

¥5,000+税 A4版160ページ ハードカバー

監修=小松原ナオ子・村田耕一 責任編集=なみきたかし/アニドウ

現在品切れです/再版をお待ち下さい

小松原一男 プロフィール

「FILM1/24別冊Komat-chan The Great」なくなりました。