映像制作(記録・アニメーション) 2011. 05. 05

アニメーション作品そのものの制作はもちろん行います。
そして、メイキングやインタビューなどアニメーションに関連するあらゆる記録映像も制作します。テレビ番組用やDVD特典用にプロ機材を投入しての本格的な撮影、編集システムです。

また、海外の優れた作品を輸入・公開する配給も行っています。

映画祭プログラム01 みどりのとかげちゃんフェスティバル 2011. 05. 05

申し訳ありません、このコンテンツはただ今 English のみです。

映画祭プログラム 2011. 05. 04

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もりさんの素顔 2011. 05. 04

もりさんはシャイな人であるだけでなく、本当に謙虚な方でありました。

アニドウが「画集」を作りたいとお願いにいった際も「僕の画集なんか売れないよ」とものすごく本気で控えめにおっしゃいました。強引に許可を頂き、編集にかかってからも特にこうしてほしいというような注文を言うこともなく、ただただ構成見本をニコニコと見ておられたのです。

しかし、どうも東映動画の時代、働き盛りの時代にはとても怖い大先生だったようです。と、いっても怒鳴ることも怒る事もなく、ただ若いアニメーターの絵を直しているだけだったようですが、その修正の絵の次元の高さにみな震えたのではないかと想像しています。

タイムマシーンがあったら、ぼくは東映動画へ時を戻してもりさんの下で働いてみたいと切望するのですが、ヘタな絵をだまって直されたらどんなにいたたまれないでしょう。

そして、もりさんは愉快なひょうきん者でありました。

アニドウの歴史は東映の「漫画祭り」という社内のパーティに起源を持ちますが、そのハイライトは、バレリーナ姿で踊るもりさんの姿です。

晩年にご家族で横浜元町のおしゃれな商店街を散策されていた時、店の中へ入った奥様が外へ出てみると、角に座っていたもりさんが乞食のような真似をして帽子にお金をめぐんでもらう格好をしていたといいます。

日動、東映動画、日本アニメーションのどの時代でも、もりさんは女性に大人気でした。絵の魅力と同時に人間としての魅力がその人気を呼んだのでしょう。(なみき)

もりやすじさんの絵の魅力 2011. 05. 03

もりさんの絵はどれもやさしい。とびきりの可愛らしさで溢れている。これほど、無垢なイラストレーションを描ける人は他にない。アニメーションの作画をなさっていることと関係があるのだろうけれど、もりさんの絵はデッサンが極めて正確だ。歪んだ所がない造形で、そのままクルリと回るころが出来るような立体的な絵なのだ。ということは、どれほどご自分の絵に厳しく取り組んでこられたのだろうか。その修行の課程を想うとちょっと怖いような気もする。

そう、もりさんの絵はとてもやさしいけれど、同じ業界の人々にはとても恐ろしい想いを抱かせる絵でもあるのだ。(なみき)

片山雅博 2011. 05. 03



1955年2月7日東京都生まれ。少年時代に手塚治虫作品に出会い、漫画・アニメーションの分野を志した。長じてイラストレーター、漫画家、アニメーション作家として活躍する傍ら、前日本アニメーション協会事務局長、元日本漫画家協会事務局長、アニメーション学会理事として業界団体のまとめ役をつとめ、さらには飛騨国際メルヘン映像祭審査員、広島国際アニメーションフェスティバル実行委員などを歴任するなど、広い範囲で多彩な活動を行った。
自らも短編作品を制作し、また「グループえびせん」の代表として、はらひろし、片渕須直、角銅博之各氏等と実践的なアニメーション制作の普及につとめた活躍も大きなものがあった。
アニドウについても、上映会のたびに書き下ろしポスターを制作するなど、多大な功績をあげている。また多彩な話術の達人として多くの宴席や舞台での司会業でも活躍。特にアニドウの無声アニメーション上映会における弁士(活漫師)として評判を呼んでいた。
近年は多摩美術大学教授として後進の育成に努め、数多くのアニメーション作家を輩出させる功績をあげるなど、余人にはできない足跡をほこる大きな存在であった。2011年2月12日午後8時43分、肺炎のため逝去。享年56。

主要作「フィルムは生きている-手塚治虫フィルモグラフィー 1962-1989」「連句アニメーション 冬の日」文化庁メディア芸術祭アニメ部門大賞。第58回毎日映画コンクール大藤信郎賞など。
著書(予定)「アニメーテッド・ピープル」(編集中/アニドウ刊)

相原信洋氏亡くなる 2011. 05. 02

かつてスタジオ・ゼロやオープロダクションに在籍し、テレビ番組のアニメーターとして働きながら自らの芸術的な作品を発表し続けエクスペリメンタルなアニメーションの第一人者となったアニメーション映像作家・京都造形芸術大学教授の相原信洋氏が渡航先のバリ島で4月30日に亡くなりました。67歳。葬儀はご遺族だけの密葬として5月8日に営まれたということです。ご冥福を心よりお祈り申上げます。

「もりやすじの世界 展」 2011. 05. 01

アニメーションの神様と呼ばれる名匠の珠玉のイラストを一挙公開!

【会期】2011年7月27日(水)→8月2日(火)

【時間】午前9時~午後9時※最終日は午後5時閉場

【会場】丸善・丸の内本店(オアゾ) 4階ギャラリー

入場無料

●現在の日本のアニメーションブームの発端ともいうべき東映動画の創立期に活躍し、「崖の上のポニョ」の宮崎駿監督や「アルプスの少女ハイジ」の小田部羊一氏など、多くの名アニメ−ターを育て「アニメーションの神様」と呼ばれたもりやすじ(森康二)氏の功績を広く一般に紹介します。

●アニメーション界だけでなく、挿し絵画家、イラストレーターとしてもすぐれた作品を発表したもり氏の原画、イラスト等を展示することで、親子がそろって楽しめる展覧会となるでしょう。

「チェコの古代伝説」配給顛末記 その1 2011. 05. 01

トルンカ作品との出会い

無知な若造がなぜ購入するまでにトルンカを好きになったのかその経緯を書こうと思います。

僕がチェコの人形アニメーション、なかでもトルンカの作品に魅かれるようになったのは、1971年に静岡で開かれたアニメーション全国総会という集まりで、「バヤヤ」(当時はバヤヤ王子)を見たのがきっかけです。

古い話なので、何でも注が必要になり書きづらいことばかりですが、アニメーション全国総会とは、当時東海道各地で発足したサークルが連携しようと、持ち回りで年一回の合宿をする催しです。この時の静岡は前年の大阪に次いで第二回の開催で、主催者は「しぁにむ」の伴野孝司、望月信夫他の方々。つまりアニドウ刊の「世界アニメーション映画史」の著者です。

何を上映するか良く知らないまま、参加してたくさんの短編に混じって、いきなり長編のトルンカ作品に遭遇しました。当時の僕は19才ですから、トルンカの(人形アニメの)心髄を理解するのはちょっと無理なのが、40年経って今頃わかります。できれば、自分に「解らなくても気にするな」と言ってあげたい気持ちです。

ボーリング場を上映場所にした会場には、川本喜八郎さんも来ている、という他の人達の驚きの声が聞こえていました。僕は「どうも偉い人らしい」というぐらいの感想で、誰なのかなんで来ているのかちょっと理解できませんでした。なにしろ、それまで聞いたことのない名前だったので…..。たぶん、ここで初めての出会いということのようですが、お話したかどうかの記憶もありません。今考えると、川本さんですらなかなかチェコの作品を見る事の出来ないその時代ですので「バヤヤ」が上映される機会を逃すはずはないですけど、こちらはその魅力が解っていないのですから、なんで来たんだろうと不思議に思うばかりでした。

この時のプリントはたぶん大阪映教という大阪の社会教育の16mmフィルム販売業者が買い付けものです。この時は原語のオリジナルプリントだったはずですが、業者さんは日本語版化したものを売るのが商売なので、どっちだったか定かではありません。

その最初のトルンカ作品の印象は、「なんか眠たいような、変な作品だな」というものです。前半は民話みたいだけどまどろっこしいし、後半の戦いは吊り糸は見えているし、ちゃちいし、バヤヤ王子と言っているけど(日本題名だけですが)王子じゃなくて農民だし….なんてケチばかりつけていて、およそ傑作を観たという感動はありませんでした。

その後何回か見る度に少しずつ好きになっていった訳ですが、見るために上映の機会を追った中には、オリジナルの音楽を損なっている悪夢のような日本語バージョンも懸命に見ました。

今では「バヤヤ」はチェコの長編としても一番好きな作品で、世の中の全てのアニメーションの中でもベスト5には入る心の宝物です。

それにしても当時からアニメーションに関して僕は無知な若者でした。

なにしろ、その頃の共産圏の国は「鉄のカーテンの向こう側」ですから、自分の認識としては「共産圏の方でも映画を作っているんだ」っていうとんでもないものでした。ましてや、アニメーションを作っていて、そのアニメーションがとてつもなく素晴らしいと言う認識がないまま、「バヤヤ」を見たものですから、とにかくへんなのと言う印象でした。

それから長い時を経て川本さんはじめ岡本忠成さんなどのいろんな人の影響を受けることで、ニブい僕も段々と人形アニメーションの作品というものの魅力を理解するに至ったということになったのでしょう。そうでなくては、なぜ自分でチェコから映画を輸入しようなどと思い込んだのか、説明できません。(→第2回に続く)