小田部羊一
1936(昭和11)年9月15日台湾台北市で生まれる。 1959(昭和34)年、東京芸術大学美術学部日本画科卒業。同年東映動画株式会社へ入社。 アニメーターとして森康二、大工原章、楠部大吉郎の下で研鑽を積む。1963(昭和38)年同僚の奥山玲子と結婚。「風のフジ丸」「ハッスルパンチ」など初期のテレビ番組をはさみ、劇場長編映画「わんぱく王子の大蛇退治」(1963)「太陽の王子ホルスの大冒険」(1968)「長靴をはいた猫」(1969)などの主要な名作で活躍する。1969(昭和44)年の「空飛ぶゆうれい船」で初の劇場作品の作画監督となる。1971(昭和46)年の「どうぶつ宝島」では、”波”のデザインを担当し原画でも活躍する。同年、東映動画を退社し、大塚康生の招きで企画中の「長くつ下のピッピ」を制作すべく、高畑勲、宮崎駿と共にAプロダクション(後のシンエイ動画)へ移籍する。この作品は中止となったが、同社では「パンダコパンダ」(1972)、「赤胴鈴之助」(1972)の作画監督をつとめる。以後も、ズイヨー映像、日本アニメーションなどのスタジオにおいて、「アルプスの少女ハイジ」(1974) 「母をたずねて三千里」(1976)のキャラクターデザイン・作画監督として、高畑勲、宮崎駿、夫人の奥山玲子らとともに常にメインスタッフとして活躍し、「世界名作シリーズ」を軌道にのせた。
1979(昭和54)年には古巣、東映動画に招かれ「龍の子太郎」のキャラクターデザイン・作画監督を担当、新しい作風を求め、さらに東京ムービー(現トムスエンタテインメント)で「じゃりン子チエ」(1981年) のメインスタッフもつとめてさらなる新風を起こすなど、常にアニメーション史に残る名作にその名を刻む。 宮崎作品「風の谷のナウシカ」(1984)、高畑作品「火垂るの墓」(1988)では短いながら重要なシーンの原画を担当。 1985(昭和60)年からは東京デザイナー学院アニメ科で講師として後進の育成にあたりながら、任天堂開発部に勤務し、「スーパーマリオブラザーズ」「ポケットモンスター」シリーズを監修した。2003(平成15)年には、連句アニメーション「冬の日」に奥山玲子と参加。2005(平成17)年より飛騨国際メルヘンアニメコンテスト審査委員長をつとめ、2007(平成19)年からは東映アニメーション研究所の講師も兼任している。